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中根城と織田信照 |
◆ はじめに 瑞穂区の中根〜弥富学区には、戦国時代に中根南城・中根中城・中根北城という3つの城(合わせて中根城)があり、城主は織田信長の十番目の弟である織田信照でした。ここでは、戦国時代の地形と鎌倉街道(上野古道)という2つの背景をもとに、中根城の歴史と、その戦略的意義について考えてみたいと思います。 ◆ 中世の歴史と地形
戦国時代の海岸線を見てみましょう。図1のように、内田橋近くの宮の渡しから1号線沿いに進み、穂波小学校のあたりからは、現在の山崎川沿いに続いていました。当時は新瑞橋付近に山崎川の河口があり、そこから現在の平子橋付近にあった天白川の河口につながって、そこから南の方へ現在の天白川沿いに続いていました。 桜本町から笠寺・星崎付近は松垢島と呼ばれる台地状の島になっていましたが、海岸線との間は、年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟になっていて、潮の満ち干や天候によっては、通行も可能でした。 ◆ 中根城
これ以外の記録は全く残っていないので詳細は不明ですが、中心となる城は南城で、織田信照が本来の城主、北城と中城は街道の南北に配置された出城で、村上小膳と村上弥右衛門は配下の者だったのでしょう。ひょっとしたら、村上一族がもともと中根を治めていた土豪(地方豪族)で、戦国時代に織田信長の傘下に入り、戦略的に重要なポイントだったので、信長が身内の信照を派遣したというような状況だったのかもしれません。 図3は中根北城址の弥富小学校で、体育館と校舎が写っています。弥富小学校のあるところは八事から続く山地の一番端で、とても見晴らしの良いところです。手前の横方向に走っている道が江戸時代の平針街道(おそらくその前は鎌倉街道)です。 図4は中根南城址の観音寺を写したもので、周囲に比べてやや小高い丘の上に建っていることが分かると思います。
◆ 織田信照 では、当時この中根城城主であった織田信照は、どんな人物だったのでしょうか。張州府志(1752年)によれば、織田・M秀(信長の父)と熱田の商人の娘との間に生まれた信秀の十男で、信長の異母弟にあたります。越中守に任ぜられたため、織田越中信照と名乗っていました。 張州府志によれば、「村人の話では、織田越中守は天性の魯鈍な人物で、常に城にこもって外へ出ることはなかった。馬を1頭飼っていたが、周りには50頭以上いると言いふらし、その1頭だけの馬を下僕に1日中洗い続けさせ、たくさんいるように見せかけていた。」と書かれています。ただ、張州府志は宝暦2年(1752)の完成で、信照が中根に来た時期から180年ぐらい後ですので、本当に頭が悪かったかどうかは定かでありません。 織田信照は、信長の弟でありながら、あまり歴史の表舞台には出てきません。生年がわかっている他の兄弟の年齢から計算すれば、信照が中根南城に来たのは、1560年代末から1570年代前半ぐらいの間と考えられ、当時20歳前後だったと思われます。信長公記によると、この織田信照は、天正九年(1581)の馬揃の際、御連枝衆として登場。弟の織田源五(長益)・織田又十郎(長利)の後に、織田中根として名を連ねています。その頃までは、中根城主だったのでしょう。 その後、天正10年(1582)に信長が本能寺の変で殺されると、信長の次男の織田信雄の家臣となり、小牧長久手の戦い(1584)では奥城を守っていましたが、城は陥落して秀吉の捕虜となります。しかし、信照は信長の弟ということで許され、沓掛城(現在の豊明市沓掛町)の城主となり、織田信雄分限帳によれば、天正12〜14年(1584〜86)に、沓掛で二千貫文の知行地を与えられています。 信照が仕えていた織田信雄は、天正18年(1590)に秀吉の怒りを買って流罪となり尾張を去ってしまいます。しかし、信照がどうなったのかは記録がありません。そして、文禄3年(1594)に、織田越中守という名前で、熱田神宮に長刀を寄進した記録が残っています。その当時は40歳代半ばだったと思われますが、それ以後の消息は不明です。 ◆ 見当流棒の手 ちょっと話がそれますが、中根は見当流棒の手の発祥地とされており、見当流中根棒の手保存会は、昭和30年に名古屋市の無形文化財に指定され、現在も多くの会員が研鑽に励んでいます。その歴史にも、ちょっと触れておきましょう。 ・加賀の浪人本田遊無は、若い頃から文武両道に精通していたそうです。そして、天文23年(1554)に、修行のため宇佐八幡宮に37日間参籠し、一心不乱に祈願したところ、八幡神の助けにより棒術の極意を感得することができ、この棒術を見当流と名付けました。これが見当流の始まりであると伝えられています。 尾張志(1844年)には、「織田信照が城主として入城したときに、本田遊無が見当流の棒術を披露したところ、城主をはじめ、居並ぶ家臣からも大いなる好評を博した。信照はこの棒術を奨励し、以後、村人たちは遊無から棒術の指南を受けた。」と書かれており、中根は見当流棒の手の発祥の地とされています。この見当流棒の手は、中根以外に瀬戸市や日進市など、多くの地域で現在まで伝承されて・「ます。 棒の手は、他にもいろいろな流派がありますが、当時、戦争に必要な兵士の数が足りなかったので、土豪が、武術に長けた人物を引っ張ってきて、農民に武術を教えさせ、戦力の一部とした名残りと考えられています。
◆ 戦国時代にあった瑞穂区内の他の城 話をもとに戻しましょう。戦国時代の瑞穂区地域には、図5のように、中根城を入れると全部で7つの城がありました。ただ、城と言っても、土豪が自分の屋敷に家来を配置し、外敵からの防御機能を持たせて要塞化した程度のものでした。江戸時代の文献には、このような城が、名古屋市内だけでも120〜130ぐらい記載されています。 室町時代後期になると、荘園制はもはや形だけのものとなり、土豪が村を掌握し、守護大名の家臣となって、国を形成していました。瑞穂区内にあった以下の城も、図5のように、鎌倉街道や河川に近い交通の要所に置かれていました。
・五郎丸屋敷 田子城とほぼ同じ位置。 このあたりが熱田神宮社領だったときに、熱田神宮神官の大喜五郎丸が屋敷を構えていた。 ◆ 戦国時代の鎌倉街道(上野古道) 中世の鎌倉街道(上野古道)は、古渡〜井戸田〜呼続〜笠寺〜鳴海と、井戸田から南下して、松垢島(笠寺台地)の東側の年魚市潟沿いを通る、江戸時代の東海道とほぼ同じようなルートが、メインルートでした。確かにこのルートは最短コースで、「信長公記」でも、この道を「浜手の道」と呼び、重要なルートと認識されていました。図5・図6の鎌倉街道Aと書かれている道がそれですが、実際には、さらにこの松垢島を通るルートも2種類あったようです。 しかし、年魚市潟周辺は湿地帯で、ぬかるんでいると馬が足をとられて進みづらく、潮の満ち干も気にしなければいけません。鎌倉街道と呼ばれる街道は、松垢島を通るルート以外に、30分ぐらい遠回りになりますが、もうひとつ別の通りやすいルート(図5・図6の鎌倉街道Bの道)もあったのです。 「信長公記」によれば、天文22年(1553)の三の山赤塚合戦のとき、「信長軍勢は、中根村をかけ通り、天白川を渡って小鳴海へ向かった」と書かれています。また、「知多郡桶狭間合戦之記録」では、「桶狭間合戦に向かった信長軍勢は、井戸田−中根−八事−野並の道を進んだ」と書かれています。八事村は現在の八事交差点付近ではなくて、元八事から中砂町のあたりにありました。 鳴海城は今川義元側の陣地ですから、敵陣のすぐ近くで湿地帯を横切るのは戦略的にまずいということもありますが、このしっかりとした陸地を通るやや遠回りのルートは、当時、鎌倉街道の別ルートとして、一般的に認識されていました。 つまり、井戸田から東に進んで現在の中砂町あたりで天白川を渡り、相生山緑地のあたりまで進んでから、天白川の東側の丘陵沿いをずっと南下して野並(古鳴海)から鳴海に進むルートも、鎌倉街道のルートのひとつだったということです。急げば、島田近くまで行かずに、中根のあたりで天白川を渡ってしまうことも可能だったのでしょう。
◆ 中根城の戦略的意義 中根北城と中城の間を通っていた道は、江戸時代には平針街道と呼ばれ、東海道と平行して走る、岡崎から名古屋城への近道として、慶長17年(1612)に、徳川家康の命で作られた街道でもありました。現在の弥富通の一筋(一部二筋)北にある細い道ですが、現在でも古老に聞くと、この道を郡道と呼んでいます。 平針にある針名神社は、延喜式神名帳(927)に式内社として載っており、平針は古くから集落があったところです。地形から見てもちょうど道がありそうなところですし、家康が整備する前から、おそらく井戸田から平針を通って三河へ抜ける道があったと思われます。 徳川家康が整備した平針街道は、島田神社の横を通っていますので、現在の菅田橋〜島田橋のあたりで天白川を渡ったものと思われ・ワす。鎌倉街道が川を横切った場所ははっきりしませんが、おそらく同じようなところだったのではないでしょうか。中世から江戸初期には、天白川の河口は現在の平子橋付近で、そこから下流域は年魚市潟という干潟だったわけですから、菅田橋あたりまで来ないと、天白川を渡り難かったということでしょう。つまり、江戸時代に整備された平針街道は、天白川を渡った少し先までは、鎌倉街道と同じ道だったと思われます。 つまり、中根のすぐ近くで、三河から平針を通って尾張中心部へ抜ける後の平針街道ルートと、三河から続くメインルートの鎌倉街道で干潟を渡らないルートの2つが合流し、天白川を渡って井戸田から濃尾平野の中心へ進んでいたわけです。 中根南城があった観音寺や二葉幼稚園のところは、周囲よりも小高い丘上の地形になっています。当時は、天白川には堤防などありませんでしたから、中根南城からは、南の方は野並のあたりまで、東の方は島田のあたりまで、簡単に見渡すことができ、街道沿いに敵軍が攻めてくるのを察知することができたはずです。また、北城と中城は、街道自体を南北にはさんで建っていました。敵の軍勢が攻めてきたときは、川を渡るところでブロックするのが大事でしょうから、そういう意味で、中根城は他の城よりも戦略的な重要性がありました。 中根城に信照が来た1570年頃は、すでに桶狭間の合戦(1560)が終わってからある程度年月が経った時期で、すでに三河方面からの攻撃圧力はかなり少なくなっていた時期かもしれません。しかし、敵の侵入を防ぐのには、川を渡るところで阻止するというのは基本的な戦略ですから、中根の地は、街道防御として押さえておくべきポイントであったことは間違いないと思います。だからこそ、他にも傘下に入った土豪の城はいくつかあったのに、中根城に、身内の信照を派遣したのではないでしょうか。 |
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